放課後は 第二螺旋階段で

モバイルでは下部のカテゴリ一覧を御覧ください。カテゴリタグによる記事分類整理に力を入れています。ネタバレへの配慮等は基本的にありません。筆者の気の向くままに書き連ねアーカイブするクラシックスタイルのなんでもblog。「どうなるもこうなるも、なるようにしかならないのでは?」

2016年のインターネット・2017年の湾岸MIDNIGHT・まもなく揮発する文化

 2016年という年は、自分が多くのものを投じてきたインターネットが終わってしまう、死んでしまうという事がはっきり見えた一年でした。薄々気づいていたとはいえ、それを受け入れるのは本当に寂しい。耐えることそのものが辛いほどに寂しすぎる。

 なぜ終わってしまったと考えるようになったのか。それは一般社会とあまりに一体化しすぎてしまったからです。「違った社会」ではなくなってしまった。深夜の無軌道な衝動が真昼の日常へと変わっていく。リラックスしながらも精神的なものがぶつかり合う趣味的な世界、インナースペース同士のつながりがビジネスライクなものに埋め尽くされていく。思考の試作品が一瞬で焼き尽くされ正しい世界へと変えられていく。

 孤立した人間同士が孤立したままに無形の連帯を持つ安らぎは失われた。もう二度と帰ってくることはないだろう。あの時代は何だったのか、きっと後年に渡って考え続ける事になるだろう‥‥。

終わった後の世界、2017年の湾岸MIDNIGHT

 こんな気分の中で迎えた2017年の1月、そして2月。そこにフィットしたのが楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT』です。

 このマンガは一般的なイメージと異なり、公道レースや最高速バトルのマンガではありません。

 そういう事に何もかもをつぎ込んでいく人生の方に重みを置いているのです。走り屋は無価値、犯罪、人生を棒に振るだけだと知りながら、それでも打ち込んで、最後に燃え尽きるその瞬間が何度も何度もあらゆる形で描写されるマンガなのです。

 莫大な時間、金、そして人生をつぎ込んで磨き上げた宝石のようなチューニングカーが一瞬の輝きを見せて死んでいく。その残響の中で生きていく。後悔する事はあっても、納得はしている。

 さらに、作中世界が1990年代頃で、今ちょうど消え去ったばかりの時代である事がまた一段と重みを増しています。

「もともと仲間じゃあないですよ 僕達は偶然であの場所で出逢っただけです」「それぞれの生活や 生き方は全然ちがう 本来なら交わらない者同士が偶然に‥‥」

「思わなかった‥‥ もう一度 こんな瞬間がくるなんて 最高のマシンと 同じ言葉で話せる仲間‥‥ ‥‥だけど もうあの頃とはちがう‥‥ もどれない 一度陸に上がってしまった魚は‥‥ もう長く水の中を泳げない すべて終わる あと少しで‥‥」

 最高のチューニングカーを仕立てて環状線を走っていれば、流れと全く違った動きをする仲間の「悪魔のZ」や「ブラックバード」と自然に出会うことになるが、最高の状態でなければ目の前から消えていくという描写の感覚・メカニズム両面も最高にインターネット感があります。奇跡的な出逢いは狙って起こせる。けれどそれが終わる瞬間もすぐにやってくる。

「やたら速いだけの フツーの車になってしまった ムリだ ムリだもう この状態でブラックバードをおさえて走れない」

「いつかは あんがいと こないんだよナ お前にはお前を取りまく大阪での生活基盤があり オレ達にはオレ達の東京での生活基盤がある 東京―大阪 距離にして500km トバせば4時間 だが距離や時間じゃないんだよナ シンクロする部分はあんがいないんだヨ じゃあナ」

「やりたかったわずっと‥‥ 車でメシ食うていきたかった 朝から晩まで車のコトだけで生きていきたかったわ でも‥‥せんかった 誰のせいでもない オレがそれを選んだんや」 

  • 一度は降りた走り屋が過去に命を賭けていたFC RX-7に乗り再び走り切るマサキ編(5〜8巻)
  • 10年間ただひたすらに速さを追い求める中で多くの仲間が去り、あるいは決別し、最後の走りに臨む黒木編(14〜16巻)(私的ベスト)
  • 大阪で湾岸最速への思いを封じていたその気持ちに3ヶ月間の上京で決着をつけるエイジ編(17〜20巻)

 この3つが特に共感する所の大きなエピソードです。

消える平行世界、まもなく揮発する文化

 『湾岸MIDNIGHT』をインターネットに適用するならば、もしかすると「ニコ生で過激化して身を持ち崩す女子中高生の話」ではないのか?と考える事がありました。実生活では誰にも知られないまま平行世界ではスターになっている二重の存在として生きる状態です。

 ニコニコ動画ができるより前の2002年のマンガでそれを盛り込むのは全く不可能ですが、華倫変の『高速回線は光うさぎの夢を見るか』は類似する認識から生まれたストーリーだったと記憶しています。


 最近はニコニコ動画でさえも人口減・高齢化が進む一方で、スター輩出も一通り終わってしまった感のある中、メジャーな企業もネット発を狙ってあるいは装ってでも仕掛けていく傾向がはっきりと見えるようになり、世界が一つになってしまう空しさを感じます。結局は大資本や社会的地位に圧殺されて終わるのか‥‥。

 こうして終わるインターネットを感じている中、たまたま2011年のアニメ『ギルティクラウン』CS再放送に偶然当たったのでした。これが作品全体としてはちょっとまとまりがないんですが、コンセプトレベルでは当時の空気感が封じ込められていて非常に印象的でした。テーマソングがニコニコ動画発のスターの中でも当時トップと言い切れるryoのグループEGOISTであり、当て書きのようになっているのが素晴らしいのです。*1


 最も輝いていた頃のニコニコ動画といえば初音ミクの時代。それは2007年に始まりました。今から10年前の事です。当時14歳の中学生が今は24歳。世界が変わるには十分すぎる時間でしょう。

 2007年が黄金期だったという事はこの記事ではっきりと認識しました。

http://shiba710.blog34.fc2.com/blog-entry-533.html


 乱文乱筆進みひどく取り留めがなくなってきたので今日はこの辺で。

「インターネット・時代の終わり」に関する共感した記事を紹介します(2017年09月08日追記)

momo.neonerd.jp

*1:余談ですが、よりネット的な集団supercell の方は今どうなっているんでしょうか?ソニーのパワー‥‥。

2016年の特筆曲リストはもはやスタグフレーション

 今年の音楽状況は「どんな曲でも聞けばだいたい面白いというのか、やりたい事が分かるけれど、かといって自分で思うがままに演奏できる楽器もなければ和音も出せないので何も再現できず、ただ巨大で高止まりした理解だけが押し寄せてくるままに流されている」と表現できる状況です。

 そして音楽メカニズムそのものに対する一体感が進むにつれ、楽曲個別の印象はどうにも薄くなってしまうのでした‥‥

 そんな状況ですが、紹介スタート。

(動画埋め込み16曲で極端に重い記事のため畳みます)

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