放課後は 第二螺旋階段で

「どうなるもこうなるも、なるようにしかならないのでは?」 筆者の気の向くままに書き連ねるクラシックスタイルのblogです。

「豊饒の海 第四巻 天人五衰」 三島由紀夫

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)
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約60年間の物語、これにて完結。約2900枚相当の長旅も御終いです。


「第三巻 暁の寺」から約16年、ときは高度経済成長後の時代に。小説が書かれた当時から見ると、近未来の世界。
大正時代から死と転生を見続けてきた本多繁邦は76歳。完全な老人となった。
醜悪で無力な肉体、尊大、卑屈、一つ一つの表情に見られる念押しと懇願の混ざり合い…そういったものを持ち合わせた醜い老人に。


老い先短くなった本多は、旅先で転生の証の黒子を持つ16歳の少年、安永透と出会う。そして、20歳で夭折を繰り返す転生のサイクルを止めることに挑むという最後の賭けのために、あるいは人生の絶頂で凍結するかのように夭折するところを確認するために、彼を養子にとることにする。転生の証拠は、同じ黒子があるということ、ただそれだけ。


安永透が本多の家に養子に取られる前の仕事は、信号所で港にやってくる船を見つけ、各所に連絡することだった。それは、「世界に関与せずただひたすら観察する者」という本多の人生との共通点を持っていた。


本多は純粋性のあまりに早死していった人々と同じ轍を踏まないために、透を一般的な人間にしようと徹底的に教育を施す。だが透は人間世界の何とも関わらず、その上に浮かぶ一片の雲のように生きているという自負から、それに従わず、純粋な存在として生きようとする。


しかし、透の「自分は純粋である」という意思は、今までの純粋性を持った転生者たちと異なり、実際に純粋なのではなく、ただ純粋だと認識しているだけで自惚れに過ぎないと看破される。透は破綻し、純粋性の証明のために20歳で死のうとするがそれも失敗し、廃人となって生き残ることとなる。
そして、透の自殺未遂で転生が自分の目の届かない所へ行ってしまったと確信した本多は、今の生で転生を見届けるのを諦め、永遠に続く転生の中でいつか再び会うこともあると考え、ある種の悟りの境地に到達する。
これが涅槃なのか?


その後、本多は松枝清顕のことを問うために綾倉聡子と60年ぶりに再会する。
だが、彼女は松枝清顕など記憶に無い、そういう人物は初めからいなかったのではと語る。

「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」

「存在している」とは一体何なのか。
本多と読者が見続けてきたもの全ては、巨大な阿頼耶識の見せた、小さく儚い幻でしかなかったのか…


豊饒の海」完。


豊饒の海」とは、空気も水も無く荒涼としている月の海の一つのラテン語名「Mare Foecunditatis」の邦訳である。

感想

この巻での主人公、安永透の性格は、書かれた年代を考えると恐ろしく現代人的で驚きました。この小説が書かれたよりずっと後に生まれた自分が感情移入するのにはピッタリな感性をしています。世界に半身しか属していない半透明な存在で、何もかもが磨りガラスの向こうにあるような感覚と、それに基づいた冷酷さをもつところ。
そして、そういう感性を持っていても実際には全身が世界に存在していなければならず、半透明でいることなどありえないという思考的急所を持ち合わせることになるというところまで現代的。


前巻で延々解説された「阿頼耶識」の概念を考えてから読むと、この巻のラストは最適で、あまりにも絶望的。その絶望の出発点の存在さえ許さない絶対虚無。

これを書いてしまったらもう死ぬしかないというか、生きることを止める以外の道が無いのでは?


自分にとってとてもとても長い物語でしたが、この作品はこれだけの長さでないと描ききれない人間や情景や思索の壮大さを持っていて、それを体験できて大満足です。