これは日記です。この映像は私が八王子で、一人引きこもっていた頃の記録です。毎日繰り返される平坦なテレビ映像を自分と現実をつなぐ唯一の媒介物として、それを無意味に再生産してみる。あの頃はバカみたいに一日中テレビばかり見ていた。当然、テレビの中の人物が考えるように考え、行動し、同じ物を信仰するようになる。映像の文体もテレビ番組と同じだ。サンプリングしたタレントと口汚く罵り合い、最終的には街頭のテレビカメラに写り、そして消えていく自分の姿を八王子の自宅のテレビで受信して、再編集した。バカバカしい。
「私は映像です。あなたは。あんたは何やってんの?」
「内面を持たないものだけが こっちに来られるんですね」
何とも繋がらない言葉の意味はそれを聞く者の思考を写す鏡になる。鏡を破壊しても、鏡としての言葉は、思考を写す世界は残り続ける。それが自問自答?
答えの無いつくられた問いかけに答える。
「serial experiments lain」にイメージが近い。
「情報」としてのみ存在する、それとも情報としてしか存在し得ない全て。都市伝説という情報。そしてそれを読み、意味を認識できるもの、認識したと言い切れるものは自分自身という存在しかない。
この作品の素材として「笑っていいとも」が選ばれたのは、この番組の徹底した意味の無さから?特定の条件で自動機械のように一定の感情を意味を表出してしまうものの連なり。それを異化するものは、映像の作者という人間、あるいは映像の中の人間としてのタモリ。これで、真の意味というものがあると錯覚することができる。
この作品は明解さからかけ離れているので、他者性が無い自分の思考を記録するほかありませんでした。語彙も無いし。ただ、読み方の方向性としてはこれ以外ありえないという確信を得ました。
確信って何ですか?
意味論というものを知らない故
上の文章は、見るものが存在しなければ意味は生まれないのではないか、見るものが存在しさえすればノイズ(無意志)の中からさえ意味が自動的に生まれてしまうのではないか、という思考が基調になっています。
つまり意味はどこから生まれるのかというと
見るものの中からしか生まれないのでは?ということ。外から来るものはそのきっかけにしかなりえない。
意味の素になるものが内面になければ、外部のものは認識できないか、ノイズとして除去されてしまう。