放課後は 第二螺旋階段で

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「耳をすませば」を見て自殺するぼくも「時をかける少女」は面白かった / 空想上の存在というものについて

あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。
この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。
実際には、現実には、絶対にありえないことを、思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、反則以外の何物でもない。
ファンタジーの世界、少女漫画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。
それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。
例えば、漫画「奇面組」や「彼氏彼女の事情」など。初めからネタの世界でしょう。
手塚治虫先生の世界でいえば、「ヒョウタンツギ」の登場により、読者は救いを得られる。
ドラマや映画なら、監督がいて役者が演技している裏舞台の世界が前提としてある。
このアニメ作品には、それらが一切無い。

見ている者は、最初の導入から始まり、この映画は日常の世界として知らず知らずにこの世界に入ってしまう。そこから、恐るべき侵食が始まっている。最後まで完璧な日常の世界として描かれているこの映画は、最後まで見たものを恐ろしくも洗脳させる。

そして、見た者は大いなる錯覚をする。
「これが、本来の現実の世界ではないのか」、と・・・
そこに描かれているものは何だろう。
高校にも行かずに留学してバイオリン作りを目指す彼氏?
親や先生や同級生に何ひとつ反対されずに壁にも遭遇せずに夢を目指す彼女?
その二人による、あたりまえのように描かれているありえない恋愛の世界?

「いいなあこんな学生生活」
「これが本来あるべき学生生活だったんだ」
「すると俺の学生生活ってなんだったんだろう」

そして、見たものの中に、本来では「ありえなかった現実の世界」が正当化され、従来の「あたりまえだった現実の世界」が否定される。
本来持っていなかったものをまるで持っていたように錯覚させ、それを否定される。
こんな残酷な作品は無い。
「現実を錯覚させる」ことがそもそもの悪であり、「現実を否定させる」ことはもっと悪である。
これを作った人は、世の中の人たちにとって、悪である。
映画史上、こんな罪作りな作品は、他に無い。

こういう例を出して適切かどうか分からないけど、『耳をすませば』に出てくるような健康的な一家を見て、果たしてアニメーションを必要としている今の若い子たちが勇気づけられることがあるんだろうか。
僕は、ないと思う。
耳をすませば』を見て生きる希望がわいてきたり勇気づけられる子は、もともとアニメーションなんか必要としないんだと。アニメでも映画でも小説でも何でもいいけど、フィクションを人並み以上に求めている子たちには、ああいう形で理想や情熱を語られても、むしろプレッシャーにしか感じられないはずだ。
僕はそういうものは作らない。今回もそうだけど、僕が作っているものにあるのは、生きるということはどう考えたってつらいんだ。多分、あなた方を取り巻く現実もこれからの人生も、きっとつらいものに違いない。いろんなものを失っていく過程なんだということ。
生きていれば何かを獲得すると若い人は漠然と思っているんだろうけど、実際は失っていく過程なんだよって。

 「耳をすませば」についての押井守のものといわれるこの発言をぼくは支持していて「生きるというのは梯子を外され続けること」という感覚が基調。
 それなのに若者青春エンターテイメントとして楽しめる「時をかける少女」は一体何なんだろう?


 この2作品にある違いは「自分が高校生をしたことがないから」なのでしょうか。
 現代の高校生がどういうことを考えているのか、ぜんぜん知らないし、さらに言ってしまえば男の人が考えることも、女の人が考えることも、ぼくには分からない。実感もない。
 だから傍観者として楽しめてしまうのか。


 もしくは、人物描写も設定も非常に漫画チックで「フィクションとしての前提」がくっきりと見えるおかげか。

出典特定困難状態になっていた引用部について

『耳をすませば』に関する押井守氏の合成発言 - ARTIFACT@ハテナ系