放課後は 第二螺旋階段で

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私から始まる研究の物語 「不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」 貴戸理恵 常野雄次郎

増補 不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

増補 不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

 学校に行かなかった時期は、過ぎてしまうと輪郭だけ残して、どんどん単なる「過去」になる。

 あのときのわたし。ひとりでご飯をよそって台所のテーブルでテレビを見ながらお昼を食べていたことや、ただじっとうずくまっているだけで一日が暮れてゆくときの淡い後悔の気持ちや、午後の決まった時間になると窓の下を学校帰りの小学生の集団が通り、見つかるはずなんてないのに恐ろしくて風呂場に隠れたこと。

 そんな情景のひとこま、ひとこまにぴったりと寄りそうような、ありありとした実感は薄情なくらいすうっと遠のいていった。ただ、「わたしは学校に行かなかった」という事実だけが残った。

 この引用部で描かれた通りの認識ほぼそのままの中にいるぼくだから、この本の著者の不登校経験についての主観的な語りは思わず前のめりになって聞き入った。初版2005年この本はもっと早く知っていれば良かった。ほぼ8年遅かった。

 登校拒否とは何なのか?心理学的なものか?社会学的なものか?教育的なものか?

 それら全てに対して否、私、そしてそれぞれのものだと答えるための思想を始めるにあたってのある種の信仰告白が本書である。

 登校拒否者の支援集団の中でも特に有力と見られている、東京シューレの不可解な不登校肯定論は一体どのような文脈で出現したのかはこの本によりようやく解き明かすことができた。これは発足当時の「自発的に意思の力で不登校を選択したことを肯定する」という今から見るといささか楽観的すぎる、しかし当時の社会情勢においては必要であった論理から生まれた結果のものなのである。これは当事者よりむしろ、親を安心させるための発想であった。「あなたの子供は病気ではありません」と。

 不登校期の私が東京シューレに対して抱いていた感情は「学校など必要がないほどのきわめて強力な自立能力を備えた者のみを救う集団であり、疲弊しきったぼくが入ったとしてもとてもついていくことができない。そもそも東京にしかない」(いわゆる「不登校エリート」に対する落ちこぼれである)であり、懐疑的を通り越して、やや嫌悪さえ感じていた。学校を出てもまた別の学校が待ち受けていて、結局の所それしか解決法はないのか?ということである。

 しかしながら現実の所、不登校は、たとえ何らかのフリースクールに通えたとしても、学歴などの問題により実社会における圧倒的不利を背負うのは確かであり、生残性が極度に低下してしまうのも現実なのである。この点をしっかり認識している点も、この本の良い視点論点の一つだ。

 著者の理解ある家族と持って生まれた知性と経歴に関しては、正直に言ってしまうと、あまりにも恵まれていると感じる。だが、こういった方に語っていただけなければ黙殺される世界であるとも考えるので「我々」をロケットの第一段ブースターとして、あなたは高みまで駆け上がってくださいと、そういう形で応援する。