■ストーリー
Vガンダムを操るウッソはその細やかな操縦技術でオデロたちをからかう。これは年相応の他愛のなさであるが、素晴らしい才能の証明でもある。機体の搬送先のリガ・ミリティアの工場でも皆がウッソの才能を信じている。
このまま部隊に戦力として溶け込んでしまいそうなウッソに対しカテジナは「怖い人にだけはならないでね」と諭し、マーベットらに対し「殺し合いは大人たちだけでやればいいんですよ」と反抗するが「頭でっかちの子供が!」「ウッソにはもっと大事な役割があってね‥‥」といなされる。ウッソ本人は「みんなに死んで欲しくない」と再出撃しマーベットは「この(士気旺盛な)心が宝である」と発言するのだが、おばさんはカテジナに対し「間違ってはいないよ‥‥」と慰めもする。
一方その間、シャクティはカルルマンと共に散歩に出ていた。ふと歌った「ひなげしの旅の向こうに」を聞いたクロノクルは姉が歌うのを聞いた覚えがあるという。
そして上空で行われる戦いを目撃したシャクティは、ウッソが死ぬのではないかと危惧する。
戦闘での敗北は死を意味する!
この価値観をウッソ以外は共有している。
モビルスーツ同士での戦闘に敗れたザンスカール兵ガリーはそれでもなお、拳銃だけを片手にVガンダムに迫る。計り知れない意思に強い恐怖を覚えたウッソはバルカンで射殺すると脅迫するが効果はなく、しかし殺さず捕虜とすることに成功する。
翌日、すぐに第二の航空攻撃が始まる。次の指揮官はワタリー・ギラ。
■コメント
一般論において正しい価値観である反戦不殺の意思も、殺戮の前では無力でしかないのである。
極序盤より続く「機械の戦争」という言葉と、この後出てくる「ギロチン」は
「殺意を持たないままに殺戮を行えるもの」
という一つのテーマで繋がっている。
この視点は富野由悠季へのインタビュー・回想録から推測するに特に重要なポイントであると考える。
ところで、今作から10年以上後に日本で出版されたデーヴ・グロスマン「戦争における人殺しの心理学」を富野由悠季は読んだのだろうか。殺すものと殺される者の精神的距離について実例を挙げて描く名著である。
■断片
- ファンからさんざんコケにされているカテジナさんであるが、序盤においては少年兵に反対する常識人の少女である。
- 結末までの流れを知ってるからこその感想となるが、カテジナさんはお姉さんという立場以外の全ての面でウッソから置いてけぼりにされてしまっただけなのだ。
- 前回戦死したサバトの親友ガリーが出撃する際のファラとデプレのやりとり「恋人が殺されればこうもなろう」「はぁ?」「たとえ話だ」この種の無理矢理喩えるテクニックは汎用性がありそうだ。
- ブーツ(脚部)・ハンガー(上半身)との合体と量産性を紹介するエピソードでもある。今作と同じ1993年にサンライズが製作した他の合体ロボ作品としては、勇者シリーズの第3作「勇者特急マイトガイン」がある。
- 普通のストーリー密度であればガリーを捕虜とした後、彼の振る舞いに衝撃を受けたウッソに割り切るための声をかける場面と少しで終わるのだが、そうはいかないのが富野テンポだ。