放課後は 第二螺旋階段で

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篠原一の「ゴージャス」は懐かしくも強烈な文化押しを受ける自伝的小説だった。

ゴージャス

ゴージャス

 血液の足りない頭でボーッとしながら毛布でからだをくるみ、コップ一杯の白湯をいただいてから保健の先生の机の上に突っ伏した。熊川が保健室を出て階段を降りてゆく。チャイムの音‥‥向かいの建物の白い壁に光がゆれている。たぶん、戸外では風が吹いていて、ゆれながら射しこむ陽の光が何処かの窓に反射しているのだろう。まるで水面がきらめくように有機的にひらめいている。けれど、その光に鋭さはもうなく、僕はいつのまにか季節が冬となっていることを感じた。そーいえば保健室には暖房さえもうついているのだった。どーりであったかいはずだ。僕も、熊やモモンガのように冬眠したい‥‥。

 1976年生まれ、1993年に17歳で文學界新人賞を受賞し小説家デビューした著者による、1998年時点での回顧録的小説です。

 何となく90年代ぶ〜けに載っていそうな、ブロークンでもインテリジェンスな東京の名門女子校10代の空気感がそのまま封じ込められた世界描写と言語感覚が際立っています。私自身がこれより少し後の時代に地方で経験した「よい学校」の時代を思い起こして懐かしむような、美化された思い出のように読むことができました。しかしながら、インテリジェンス差はそう感じなくても、カルチャーには圧倒的な差があり、「文化資本とは御茶ノ水・神保町・神田・秋葉原・上野・中野に日常的に行けるか否かで決まる」という持論を再確認する感がありました。何のイベントでもない平時の文化ポテンシャルが成長率の差に直結するのです。

 やっぱり地方では、政令指定都市クラスでも、東京には全くかなわない。