放課後は 第二螺旋階段で

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「豊饒の海 第三巻 暁の寺」 三島由紀夫

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)
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第一部

純粋性に生きた飯沼勲が自刃して8年。
ときは第二次世界大戦の直前へ。
弁護士となった本多繁邦は48歳。彼に若さはもう無い。
交易関係の仕事のためにタイに駐在する彼の前に、自分は日本人の生まれ変わりだという幼い姫、月光姫が現れる。
彼女は松枝清顕や飯沼勲としての前世の思い出を完璧に語るが、転生の証拠の黒子は無かった。転生者としか思えない言動をしている彼女は一体何者なのか?
その後はインドに行って人の終わりの聖なる火葬場「マニカルニカ・ガート」を見て思索したり、本を集めて思索したりと輪廻転生についてひたすら考えるばかり。

第二部

第一部から10年。飯沼勲の自刃から18年。
若者たちが生き生きと死んでいった第二次世界大戦は終わり、ときは戦後の混乱期へ。
本多は58歳。
仕事で成功し富豪となった本多は、転生者と思われる18歳の月光姫を日本へ呼び寄せる。
しかし、月光姫は本多の転生への思い入れを虚無に帰すかのようなことを言う。

「小さいころの私は、鏡のような子供で、人の心の中にあるものを全部映すことができて、それを口に出して言っていたのではないか、と思うのです。あなたが何か考える、するとそれがみんな私の心に映る、そんな具合だった、思うのです。どうでしょうか」

そして、実りのない日本留学からの帰国後、月光姫もまた20歳で計ったように夭折する。

この部は、自分が勝手に取り憑かれた転生への思い入れを他人が果たしてくれるのをひたすら願う老人の醜さが執拗に描かれていて、嫌だった。
筆力と観察眼は凄いと思ったけれど。


感想と疑問点

この巻で特に重要な要素になっているらしい、「阿頼耶識」と「輪廻転生」が関係するという「唯識論」に関する思索の話が何度も読み返しても全然分からず…


毎回テーマとなる「純粋性」も、今回では月光姫の「肉体」にかかっていたけれど、「肉体」は燃料を化学変化させて駆動され常に調律され続け吸排気し動くメカニズム以上のものだという感覚がまだよく分からないから、登場人物たちが何故こう執着するのかも分かりにくかった。
分かりにくいところだらけで最後まで読むのは、ちょっと辛かった。


関連ページ

唯識 - Wikipedia

般若経の空を受けつぎながら、まず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする教えである。この学派を瑜伽行唯識学派瑜伽行派)とよぶ。vijJaptiとは「知らしめる」という意味。唯識とは語義的には、自己と自己を取り巻く自然界との全存在は自己の根底の心である阿頼耶識が知らしめたもの、変現したもの、という意味である。唯識説によれば、ただ心のみがあり、外界には事物的存在はないとみる。

これは西洋思想でいう唯心論ではない。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその存在性も否定されるからである。

阿頼耶識 - Wikipedia

阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸法(現行(げんぎょう)法)を生じ、その諸法はまた阿頼耶識に印象(熏習(くんじゅう))を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。

インド思想史略説
消えていたのでgoogleキャッシュより転載…

アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響をあたえる過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(貯蔵庫)」(alaya)である。

これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、教理の整合性をたもつ上で重要な役割を果たした。すなわち、無我説と業の因果応報説の調和という難問がこれによって解決された。

無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく存在であるという。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜいえるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体は認められない。はたして自業自得ということが成り立つのか。あるいは、過去の行為の責任を現在問うことができるのか。これは難問であった。

解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。いいかえれば因果の連鎖のうちに自己同一性の根拠が求められた。

しかし、業の果報はただちに現れるとはかぎらず時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力はどのようにして伝えられるのか。先の解答はこの点について、十分に答えていない。

深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象はアラヤ識の中で潜在余力となってたもたれ、後の心の形成にかかわる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面にあらわれる心の流れを形成する。

これによって、アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのかという問題に対する最終的な解答が与えられた。

ところで、アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、ひとはこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心のはたらきである。これは、通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心のはたらきである。そこで、この自我意識(manas末那識、まなしき)は特別視され、独立のものとみなされた。

こうして「十八界」において立てられていた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識、第八のアラヤ識が立てられた。心は、これらの層からなる統体とみなされた。そして、このような層構造をもつ心のはたらきから生まれ出る表象(vijnapti)として一切の現象は説明された。

一切は表象としてのみある(vijnaptimatrata)。しかし、ひとは表象を心とは別の実在とみなす。こうして、みるものとみられるものに分解される。このようにみざるをえない認識構造をもつ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。

虚妄分別によってみられる世界は仮に実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。

そして誤った表象をうみだす虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。

こうして依他起なる心、アラヤ識のうえに迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別としてはたらかなくなるとき、みるものとみられるものの対立は現れなくなり、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」をあらわす(円成実性)。

「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、あわせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。日本において、唯識思想は倶舎論とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。

過渡的な自分の解は…

  1. 識はあるけれど魂なんて無い(無我説のスタート地点)
  2. 識は転生の時に消えるし、魂が無いのなら一体何が転生している?業があるのは何故?(転生はある、というのが前提になっているのはどうかと思う。「天人五衰」でこれは解決されるのかな)
  3. 転生の前も後も、ありとあらゆる存在は「阿頼耶識」という全てを統合するものの瞬間的な一つの断面でしかないと考える。
  4. つまり「阿頼耶識」で総ては繋がっていると考える。
  5. 総ては刹那ごとに阿頼耶識から生滅し続けているとも考えられ、何もかもは転生し続けているとも、初めから転生なんて無かったとも言える。

こんな感じで大方合ってるのかな?