読み終わってから、この本は6年位前にも一度読んだことがあるということに気が付きました。そのとき何考えてたかは全然思い出せません。
面白かったのか、当時の自分に聞いてみたい。
一冊を通しての思考の源は、「人間の価値というものは一体どの部分にあるのか」
第一部「S・カルマ氏の犯罪」
ある日目覚めて欠伸をすると、ぼくの胸がからっぽになってしまったような感じがした。そして、ぼくの名前は消えてしまっていた。
仕方なく会社に行ってみると、名刺が代わりに仕事をしていた。名前を持たなくなったぼくは、その穴を埋めるために荒野や駱駝を吸い込もうとして、窃盗犯として追われることになってしまう。
1951年の芥川賞受賞作。
あまりにも不思議すぎて、今は物語のはっきりとした意味はどうにも分からない。
著者は、教訓のような完成されたものはエッセイで書けば済むという発想をしていて、小説は意味が分かるように書いていないから、当然といえば当然なんですが……
テーマや物語を描くというより、世界や体験そのものを描いている作品です。
人間というものがたかが名前を失っただけでペンや眼鏡といった無機物と同じ世界のものになってしまい、名刺という名前と能力だけで実体を持たない存在がいれば世界は動くという感覚と、自分にできた穴を荒野という無で埋める感覚を頭の中に置いておくと、ジワジワと新しい世界が見えてくるようになるかもしれません。
この作中詩は理屈が集中していて、意味づけの助けになるかも。
そうだろうとも、おまえが見れば
渦の底にちがいあるまいさ。
哲学者が申すには
―ああ、こいつはひろすぎる、
ひろすぎて、ここにはもうひろさがない。
数学者が申すには、
―なるほど、こいつはたしかに微分方程式の化物だ。
法学者が申すには、
―これこそわれらが理想の壁、
もう裁判なんかよして眠てしまおう。
罪人よ、行きたまえ、世界の果に。
しかしまあ行ってごらんよ、
ロビンソン・クルーソーより淋しかろ。
なぜって、そこにないのは、
人間だけじゃないからね。
だが死よりはましだ、なんて言いたもうな、
ここの主は死をなくした死という奴だ。
しかしそれでも行かなきゃならぬ、
胸に世界の果をもつものは
世界の果に行かなきゃならぬ。
壁よ
私はおまえの偉大ないとなみを頌める
人間を生むために人間から生れ
人間から生れるために人間を生み
おまえは自然から人間を解き放った
私はおまえを呼ぶ
人間の仮設と
第二部「バベルの塔の狸」
「とらぬ狸」に影を盗られた詩人は、影を通して実体まで引き抜かれて、目だけを残して透明になってしまう。彼は影と実体を取り戻すために、狸たちの棲家となっているバベルの塔へと向かう。
こちらは、ダンテとかブルトンとかニーチェとかがオールスター出演したり、影と実体に関する「卵が先か鶏が先か」の思考から影を削り世界を美しく削り出す天使の旋盤が出てきたりと、分かりやすい楽しさが多めなので割りと読みやすいです。
無茶な話なのに最後にはちゃんと普通に終わるところも良い。
第三部「赤い繭」
ここは4つの短編で構成されています。
- 「赤い繭」
高校の教科書によく掲載されている短編。
総てが誰かの、あるいは皆の所有物なら、何も持たないおれが所有するものは一体何なのだろうか…?
夕日の赤と繭の赤の生命的さ。さ迷い歩いた結果見つかる最小の所有物と、それの無造作な最後が印象的。
- 「洪水」
哲学者が望遠鏡で覗いていた人間が突然液化し始める。人類全ては液化し始めていた。
液体人間はありとあらゆる液体に溶け込み、ニュートン力学を無視し堤防を超え船を沈め、すべてを飲み込む。神話の世界さえ飲み込む。
哲学者の望遠鏡で覗かれる世界の変貌と、世界全ての変貌との繋ぎ方が上手いと思う。
液体人間が人々を脅かすところのイメージは「ジョジョの奇妙な冒険 第四部」の「アクア・ネックレス」ってスタンドみたい。
- 「魔法のチョーク」
アルゴン君が壁にチョークで絵を描くと、それが全て本物になる。だが朝になると全て元の壁の絵に戻ってしまうのだった。
彼が壁に描いたものを手にするために工夫を重ねた末たどり着くのは…
- 「事業」
食糧問題を解決するために増えやすいネズミを大量生産することにした男。彼は肉をたくさん取るためにネズミを大型化するが、ある日そのネズミが彼の妻を食い殺してしまう。
その彼が肉作りから発想する新世界。