ある高校。ある日の午後。誰かが中にいる開けられない部屋。
ドアの隙間から血が滲み出てきている。
その部屋にいるのは一体誰なのか?
そして、開いた瞬間に見つかったのは一体何者なのか?
強い緊張からこの映画は始まる。
そしてその日の朝。学生たちは学校に登校する。授業を受ける。休み時間を過ごす。
学生たちは…
- 「将来は経営者?」明るい未来を語る恵まれた家庭に生まれた少年。屈託が無さそう。
- 将来は経営者という少年の妹であり子供と動物を好み将来の夢は小学校の先生という少し内気な少女…兄と違い親からはひどく冷遇されている。外国の恵まれない子の里親になったところ「金を無駄にするな」と一方的に止められた経験もある。
- スポーツマン。いわゆるジョックス。ハイスクールのヒーロー。男の中の男たらんとする青年。 ジョック - Wikipedia
- よれよれの格好でいつもマリファナ煙草を吸っている。ゲイ。被差別者たる青年。かれは何故そのことを周囲に知らせたのか若干疑問。外国では一般的な習慣?
- スポーツマンの恋人であることに最も大きな喜びを感じ、愛と美に生きる女の中の女たらんとする女。
- 身体に障碍があり、そのことをひどくからかわれる少年。
短くも現代学生の生活を切り出す象徴的なシーン、インタビュウ、短くも象徴的なシーンと他の学生とのコンフリクト、インタビュウ。螺旋階段登るように積み上げられていく学生たちの関係性。
関係性の積み上げは本当に見事な素早さです。コミュニケーションは双方それぞれのアクションとリアクションで成り立っていて一面的一方的なものにはなりえない、ということから最大限の情報を引き出しています。インタビュウを利用して、通常では分かりえない心の奥底の思考まで一気に引き出す。
スクールカーストの中に生きるかれらにはそれぞれの生き方と悩みがある。うまく生きられない者が悩みを持つのは言うまでもなく、しかし楽しみも無いわけではなく、栄光に包まれ続けているかのような者も、些細なことが命取りとなる厳しさと向き合い続ける苦しみを持っている。
そして、日常の中にある日常であるべきはずのものが日常を破壊する。終着点はひたすらに平坦な死。
「自殺した」「誰が?」思い出せやしない。
サティのジムノペディが美しかった。ただそれだけ。
そしてさみしい少女の 弔いの席上で 共に学んだ娘たちは インチキの涙流す 話したこともないくせに さも仲良しだったように「あの子、いい奴だった」なんて 顔も覚えてないくせに
筋肉少女帯『ノゾミ・カナエ・タマエ』
しかし残念ながら、この構造はラスト20分ほどを2回見てやっと意味が分かるくらいでした。
論理を走らせないと事件が起こることさえ認識できないというのは、構造があまりにも硬すぎて、心を動かすものとしては根本的構造欠陥があるような印象があります。
「事件が起きたのにそれが分からないという体験を分からせたい」という思考まではたどり着けるけれど、そこから先の実感するところで拒まれるような感覚。
「孤独」といわゆる「空気」の描写の区別がうまくつけられていないのでしょうか。何度も何度も映像的フォーカスは合うけれど内面描写は無い…等なら若干は分かりやすいかと思いますが、映像的にも中心にならないので感じることの難しさがさらに一段と強まっています。
(この文章を書いていたら、自分の西洋人顔識別能力不足や高校生活に対する感情移入能力不足が難しさの原因かもしれない、という理由も見つかりました)