放課後は 第二螺旋階段で

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万能感は強さでもあるはずと / ブラジラーで一度死んだユウキ・コスモとブラジラーもバッフ・クランも無いままにただ死んでいくしかない人々

つまり精神的に殺されたら、というか無力感を植え付けられたらそのままでは生きていけない
だから大量殺人にもなる
バッフ・クランを徹底的に叩く
その欲求が社会に向けられたら脇目も振らず働くだろうし
自分に向けられたら装飾やリストカットで改変するだろう
そういう呪縛はある

秋葉原通り魔とイデオンとコードギアス - 旧玖足手帖-日記帳-

 私が使った「精神的殺傷」という独自規格で一般性が無い表現が、id:nuryougudaさんの力で「植え付けられた無力感」というわかりやすいものになりました。


 人は成長と共に植え付けられた無力感を振り払うために生きているのか?
 それとも、失われた万能感を取り戻すために生きているのか?


 富野作品の幾つかで「子供の純粋さ」が価値あるものとして扱われているのは、子供が持つ万能感に近い無力感の無さが、劣等感や無力感の裏返しといった余計な反動の無い力への意志として捉えられているからなのでしょうか。


 カツ・レツ・キッカといった子供たちがニュータイプとなったのも、赤子のメシアが人類の次を担う切っ掛けになったのも、そのためでしょうか。


 「子供と新世代とそれを繋ぐ者」についてさらに話を進めるには、「逆襲のシャアベルトーチカ・チルドレン」を読んでみたほうが良さそうと思うようになりました。
 旧世代と新世代の中間にあたるアムロ・レイが全くの新世代の子供のために戦い生きて、その子が新世代時代の始まりとなる物語と聞いているので。