芸術然としたソ連映画「ストーカー」は、ストーリー面の比較的分かりやすい層では「本人の表面的願望と無関係に全ての層の思考が分かられてしまうということから起こる悲劇」が描かれていますが、これが「究極の他者理解」としてのニュータイプ・イデ論の破綻に対して何か影響を与えなかったのか気になります。
「ストーカー」に登場した全ての望みをかなえる「願望機」は、トラップ・肉挽き機で死んだ弟を蘇らせて欲しいと願ったストーカー・ヤマアラシに大金を与え、「本心では弟よりも金を望んでいたのか?」という葛藤と「弟よりも大金を望む者である」という痛烈な事実*1を持たせ、自死へと追い込みました。機械的に。
*1:しかしこれは本当の事実なのか誰も確認がとれない