放課後は 第二螺旋階段で

筆者の気の向くままに書き連ねアーカイブするクラシックスタイルのblog。カテゴリタグによる分類には力を入れております。ネタバレへの配慮等は基本的にありません。「どうなるもこうなるも、なるようにしかならないのでは?」

「零戦搭乗員空戦記―乱世を生きた男たちの哲学」

 この本は私的零戦ブームにあわせて貰って読みました。
 タイトルに反して哲学は特にありません。
 緒戦の勝ち戦が終わって末期戦寄りのタイミングで実戦に参加した方が中心の、やや珍しい視点の個人戦記アンソロジーです。F4FワイルドキャットやP-40ウォーホークは全くといっていいほど登場せず手強く辛い戦いの連続で、戦死者が記憶からも消えていく様はちょっとぞっとするほど。

 編成オタ要素が身について読む初めての個人戦記のため、以下の各項まとめは勢いがついてちょっと大変な状態になっています。

零戦に生き紫電改に死す 海軍上飛曹 小八重幸太郎

 主な経歴

  • 1943年初頭 第1航空戦隊として空母「瑞鳳」の戦闘機隊に配属。ろ号作戦・ブーゲンビル島沖航空戦に参加。
  • 1944年9月 追浜で戦闘701飛行隊(第343海軍航空隊隷下)に編入紫電紫電改に機種転換。

 グラマン(F6F?)は4000m、F4Uは6000m、P-38は8000mの得意高度によくいるそうで「エースは索敵能力が違う」というのは、こういう未マニュアル化の経験則が頭に入っているか否かという伝承可能な部分も大きかったのでは?
 紫電紫電改は操縦資格が共通だった模様。(未確定)

 「343空はラバウル帰りのベテラン揃い」といっても、飛行歴は僅か2年程…戦時下のパイロットとは…

(初出:月刊「丸」昭和56年7月号)

愛機零戦で戦った一千二百日 海軍飛曹長 谷水竹雄

 主な経歴

  • 1942年4月1日 木更津基地で編成された第6航空隊(第26航空戦隊隷下)に配属。訓練中部隊は4月18日のドーリットル空襲迎撃に参加。
  • 1942年5月 空母「隼鷹」に乗艦。「龍驤」などと共にアリューシャン作戦に参加。着艦未訓練のため直接空戦には参加せず。
  • 「隼鷹」は駆逐艦と邂逅しミッドウェー海戦で沈没した空母「蒼龍」の乗員を収容。会話は禁止。
  • 1942年7月 同期の杉野計雄と共に96式艦上戦闘機に機種転換して空母「大鷹」に配属。
  • 1942年9月28日、空母「大鷹」被雷し大破、艦載戦闘機部隊は解散。隊員は大村の戦闘機教員へ。練習生は24期飛練。
  • 1943年2月 第三艦隊隷下の第一航空戦隊として空母「翔鶴」に配属。零戦に再び機種転換。7月まで戦闘爆撃機としての訓練を続けトラック島へ。
  • 1943年10月 パプアニューギニア・ニューブリテン島・ラバウルに進出し、ろ号作戦に参加。
  • 1943年12月 11月に打ち切られたろ号作戦の生き残りとして第253海軍航空隊(第11航空艦隊・第25航空戦隊隷下)に編入
  • 1944年2月 台南空の戦闘機教員へ異動。訓練時から常に同部隊だった友人の杉野計雄は大分海軍航空隊の戦闘機教員へと別れる。
  • 1944年8月31日 台南空で数少ないA級搭乗員として岩井勉と共に夜間戦闘に従事。岩井勉異動後は単機でB-24夜間撃墜に成功。
  • 1944年10月 台南空・高雄空共同の戦爆連合迎撃戦で大被害を被り合併再編成。その後内地から来た夜間荒天専門のT攻撃部隊(第762海軍航空隊)、第254海軍航空隊、第256海軍航空隊と合流。
  • 1944年10月16日 第六航空艦隊攻撃機の直援に台南空、第254海軍航空隊、第256海軍航空隊が出撃し敵機動部隊と大規模交戦。(台湾沖航空戦での戦果見積もり過大問題が発生したのはこの近辺の戦い)
  • 1944年10月31日 中国・アモイにて要撃後着陸中にP-51により被撃墜、火災、落下傘降下。
  • 1944年11月14日 台南空、高雄空、特攻隊へ改変。訓練中に戦績を認められ原隊復帰。戦闘308飛行隊(第203海軍航空隊隷下)へ。
  • 308飛行隊が出撃移動したので次に練成される戦闘312飛行隊(第221海軍航空隊隷下)へ異動。
  • 1945年3月26日 戦闘303飛行隊(厚木空こと第302海軍航空隊隷下)へ異動のち終戦

 本文はあっさりしていますが、この方は18機撃墜のスーパーエース。同期の友人として長く共に異動している杉野計雄も32機撃墜。台南空時代にちょっと登場する岩井勉も22機撃墜。
 アリューシャンの頃は離着艦もできなかったのに、いつのまにやら夜戦をこなせるA級搭乗員、そして海軍を代表するエースへ。
 パイロットが前線に張り付いて消耗するイメージの強い日本軍ですが、意外と頻繁に教員へと異動しています。前線を押しこまれたため、やむおえず消耗してしたようです。

 隼鷹に乗ってアリューシャン作戦へと旅立つとき、関門海峡沿岸の人々が手に手に日の丸の旗を振っていたという情景が特に印象的。ちなみに関門海峡の幅は600m程。
 霧深いアリューシャンでは先行する龍驤探照灯も溶けこんで見えず、曳航する霧中標的の鐘の音だけがよく聞こえていたという神秘的航海。
 台南空での単機B-24撃墜では前左下方の防御機銃死角をついていて、そんなはっきりとした弱点が知られていてはヨーロッパで脆い爆撃機と見られるのは当然では…
 厚木空に参加していよいよ最終決戦というところで回想が終わっているのが不思議だったのですが、玉音放送後の終戦反対工作に参加していたため触れなかったようです。


(初出:月刊「丸」平成4年10月号)

  • 2011年9月30日追記

 この方は『ストライクウィッチーズ―スオムスいらん子中隊』という小説シリーズで、「迫水ハルカ」というキャラクターのモデルになっているようです。ストライクウィッチーズの登場人物 - Wikipediaの情報による。

わが二十歳の零戦時代 海軍上飛曹 川嶋透徹

 主な経歴

  • 1943年 土浦予科練を卒業、筑波航空隊で飛行訓練開始。
  • 1944年春 大村航空隊で練習型零戦による戦闘訓練開始。
  • 1944年夏ごろ?に大分航空隊に実戦部隊配属。

 訓練生活が中心の回想録。大戦中の予科練出身下士官パイロットの訓練についてはこれよりも詳細な描写をしている戦記はまずないでしょう。教官による体罰は異常に激しく訓練生を無為に消耗していてそれに対する懲戒も特になく、けれども教官は実戦なり特攻なりで死んでいくという後腐れのない(?)状態。
 現在の自衛隊の航空学生は入学試験でいきなり操縦させて才能だけでどれくらい乗れるのかを見て選抜しているそうですが、その前身と思われる訓示が述べられる場面があります。
「飛行機はちょっとしたミスや気の緩みで即座にあの世行き、失敗は成功のもとなどという世迷いごとは通用しない。一度のミスも絶対に許されることはない」との由。
 戦争後半の短縮訓練期に加え深刻な劣勢だったため、戦闘飛行については無我夢中。

(初出:月刊「丸」昭和62年11月号)

わが青春の零戦隊 海軍中尉 今井清富

 主な経歴

  • 1944年7月20日 第7期兵器整備予備学生として卒業。第201海軍航空隊(第一航空艦隊隷下)へ配属命令。
  • 木更津へ行くも飛行隊は存在せず。
  • 香取(千葉)、台湾を経由してフィリピン・ミンダナオ島・ダバオにて着任。
  • 1944年10月 最初の特攻隊である敷島隊を見送る。
  • 1944年12月 病気のため内地へ帰る。
  • 1945年1月 フィリピン・ルソン島のリンガエン湾にアメリカ軍が上陸、そこに移動していた第201海軍航空隊は陸戦ゲリラ化。

 この回想記はパイロットでさえありません。無線整備の専門家です。
 戦闘そのものとは若干距離があり、当時の日記を元に書かれたと思われる書式のため、やや客観的に描かれています。
 時期が時期なので常に末期戦状態で、訓練校を卒業してから部隊に到着するまで非常に手間取り、同期生の中には日本中を北に南に延々移動する羽目に遭った者まで。前線の飛行場にたどり着いても何度も何度も延々と爆撃されてしまう。それでも自軍の飛行機が飛んでさえいれば決して戦いに負けはしないと信じている。パイロットたちが無線機をあまり使ってくれなくて地上からの指揮が通らないのは困るけど…

 無線部隊にとって命より大切なものは水晶発振子。

(初出:月刊「丸」昭和58年2月号)

ラバウル零戦隊奇蹟の飛行日誌 海軍飛曹長 塩野三平

  • 1940年 甲飛7期生として土浦海軍航空隊で訓練を受ける
  • 空母「翔鶴」に乗りアリューシャン
  • 「翔鶴」はアリューシャンからパプアニューギニア・ニューブリテン島・ラバウル
  • 1943年10月 ろ号作戦のため第204海軍航空隊(第三艦隊・第一航空戦隊隷下)へ配属され初の戦闘
  • 1943年12月6日 ニューブリテン島ガスマタに上陸中のアメリカ軍を銃撃中に被撃墜、火傷で重傷、落下傘降下後現地民に救助される
  • 1944年1月ごろ 日本軍と合流、駆逐艦に便乗しラバウルへ帰還
  • 1944年1月ごろ 大村海軍航空隊へ教官として異動。
  • 移動のため乗艦した空母「大鷹」は潜水艦の魚雷を受け大破するもサイパンまで到着。(この時期「大鷹」は横須賀で修理中という情報多数のため記憶違いの可能性も。八幡丸改装空母の「雲鷹」はサイパン近海で1944年1月19日に被雷)
  • 航空機に乗り換え大村に着。
  • 横須賀海軍航空隊の戦闘701飛行隊へ配属。紫電に機種転換。
  • 横須賀海軍航空隊は宮崎基地へ移動。
  • 1944年10月25日 横須賀海軍航空隊はフィリピン・ルソン島・マルコット基地(現クラーク空軍基地)へ移動するも、筆者は機体故障のため途中で引き返し、2週間後にフィリピン着。
  • 1945年1月 飛行場爆撃による被害深刻で稼働機なし、特攻さえなし、地上移動でアパリ基地へ
  • アパリから台湾・高雄、四国の松山へ。
  • 内地にて第343海軍航空隊・戦闘701飛行隊の一員としての戦いが始まる。

 被撃墜後、土人に救助されしばらく過ごしたという異色の経験。水木しげるも同じくニューブリテン島で土人に救われています。
 開戦前に訓練を受けた層でも実戦までの間が長く、そのため消耗の少ないまま精鋭と名高い343空に参加。

 軍の戦闘力を決めるものは、開戦前の準備が9で始まってからが1くらい。

(初出:月刊「丸」平成2年2月号)

私が体得した空戦の極意 海軍中尉 坂井三郎

 この章だけ総括的内容で他とはっきり毛色が違います。坂井三郎はさすがに文章が上手く、突然スラスラ読み進められるようになりました。
 第二次世界大戦もののフライトシムで、後ろは取れてもガンがいまいち当たらなくて決定力に欠ける方はこの項を読むと効果的です。
 敵機の真後ろをとると測距不能なシルエットとなるためキルゾーンは漏斗の縁型となること、相打ちは負けであること、士官パイロットは戦闘でなく空中指揮を優先すること、20mm機関砲は射撃訓練が全く行われず実戦で役に立たなかったこと…

(初出:「丸」別冊「戦争と人物」2号、6号、平成5年4月、12月号)