ある身分の高い老人のもとに使者がやってくる。
老人はノックに応えず、使者達は名前を呼ぶ。「サリエリ様!」と。
しかし返事は無かった。使者たちが重いドアを開けた向こうには、自殺を図り血みどろになったサリエリが倒れていた。
サリエリは「私がモーツァルトを殺した!」と叫び、その狂気により精神病院へと入院させられるのだった。
精神病院に入院したサリエリは、病院付き聖職者に対して自らの曲を演奏してみせ、その曲を知らないと言われ、モーツァルトの曲を演奏してみせると、初めのほうを聴いただけで聖職者はその後を鼻歌で続け「あなたの曲ですか?」と言ってしまう。
そんな聖職者へ、サリエリは自分よりずっと先にいなくなった天才モーツァルトの思い出を語る・・・・・・
宮廷作曲家という社会的地位の絶頂にいる若き日のサリエリの前に、モーツァルトという天才があらわれた。
モーツァルトの神懸かった圧倒的な音楽の才能の前にあっては、サリエリが受けるありとあらゆる社会的賞賛も、全ては空しいものへと変貌してしまうのだった。
神に祈りそして道徳的に生きたサリエリは、自堕落な生活をしているモーツァルトに対して「何故神はあのような者を選んだのか!」と怒り、悩み、苦しむ。
そして、神がサリエリに与えた才能は「モーツァルトの才能の真価と構造をモーツァルト本人以上に見抜くことができる」というものだった。
サリエリがそのことにはっきり気がついたとき、彼は思わずモーツァルトの才能が持つ危険な面をモーツァルト自身に向けさせてしまう。
この映画について書かれた感想や評のうち95%は、本当に重要なところを取りこぼしています。ぼくの文章もその95%から脱出できているのかというと疑問なのですが・・・・・・
モーツァルトに対する複雑な感情がうまく表現されていて、一般的によく言われる「嫉妬」では済まされない映画だと思います。
精神病院にいる、音楽について全くの素人の聖職者がサリエリの曲を知らずモーツァルトの曲は知っているというときのやりきれなさ。
サリエリ本人が匿名でモーツァルトに「サリエリ調で弾いてみ」と言い、モーツァルトは即座にそれをやってのけ、そのさまを皆から嘲笑されるという幾重にも重なる悪意のない侮辱は観ていてもつらい。
モーツァルトが悪魔のように見えてくる。「神は何故あんな下衆を選び、私にはその才能を理解する力しか与えなかったのか!」
全てを注ぎ込んだものが、悪意さえ無いままに軽々と打ちのめされるという絶望。
一神教の感性が強く染みついている人間なら、なお一層印象が強かったと思う。
そして、モーツァルトの才能の真価を理解できたのはサリエリだけという悦び。モーツァルト本人でさえ自身の才能に気がついていない。その無邪気さもまた憎い。
この映画のありとあらゆるシーンで使われているモーツァルトの曲は非常に威圧的に聞こえる。シナリオのせいなのか、演奏そのもののせいなのかは分からない。後半に入ってから聴くモーツァルトの曲は、蟻の視点から聞く人間の足音くらいに恐ろしい。
誰かに対して逆転不能の決定的敗北感を感じたことがある方は、是非この作品を見てみてください。
細かめの話や補足
- 言語が思いっきりアメリカ英語なのはちょっと惜しいところ。英語の偏差値が0の自分でも字幕無しでストーリーが追えそうなくらい良い英語をしていました。「英語をしゃべる皇帝」「英語で通じるウィーン」ってイメージは無いので変な感じ。
★4 「上を見たらキリがない」とか言って簡単にあきらめてしまうのが凡人の凡人たる所以。彼(サリエリ)はけっして凡人などではない。 (緑雨)
CinemaScape/Comment: アマデウス
これは全くもってその通り。