「存在を中断することが、よしんばできたにしても、その空白期間中は、中断していると感じる君自身が存在していないのだから、その中断は、君にとってなんの意味もないものになる。いずれにせよ、存在しつづけなければならないこと、存在するかぎりにおいて存在しつづけねばならないことが、われわれの―考えようによっては、この上もなくおそろしい―宿命だよ」
機械は、どうにもならない運命の告知者であり、その冷酷さは、運命の冷酷さだ。
「死ぬべきものも、生きのびるものも、すべて同じ種の一つの心によって共有の未来のために、えらび、えらばれた。えらばれたものは、のこったものの全存在を負うている。すべては、この時代の、この同胞―異なった運命を生きながら、今は同じ断崖に立たされている同一の種族が、その総意によって、えらんだ道だ。―あなたは、その共同体の運命を見すてるのか?見すてて、自分だけが、他の存在によってえらばれたものの道を歩もうとするのか?」
終わりのない砂時計。岩の中から聞こえる電話の音。これらは一体何なのか?どのような原理で動いているものなのか?一体何者が作り上げたのか?この謎に挑んだ人々が忘れ去られた数十年後、移りゆく日本の季節の中でかれらは再会する。一体何故こんなことが起こったのか?時間軸さえも見下ろす肉体の縛りを越えた知識存在第四階梯が抗う存在は何なのか?時間を越える存在をこの宇宙から消滅させるとはすなわちこの宇宙の持てる熱的可能性すべて奪い去り消滅させる事に他ならない。
「魔法少女まどかマギカ」のSF的な所が好きなら小松左京の「果てしなき流れの果てに」「ゴルディアスの結び目」を読むと面白いはずという SFおじいさん*1の感想に沿って読んで納得する物語だった。
意識とは、存在とは一体何なのかを高い密度で突き詰めているため、思考をまとめるのが非常に難しい。人類に対する上位知性体の不可解な見え方にはまるでスタニスワフ・レムの小説を思わせる物がある。この壮大な物語が終端ではヒトへと帰還できる構造的強固さがまたすばらしい。
時間軸を越え全ての可能性を成立させうる存在となったヒトが選ぶ道は「絶対の幸せとは何か」という究極的問いに対する答えを出すことにも等しいのです。
空の面積を広く取った絵画を思わせる風景描写の手法もまた物語の巨視的な目線に噛み合っています。役小角の見た空は20世紀にも変わらず、やがては26世紀へと繋がっている。
これほどの作品を1965年に書いてしまったら SFはもうやり尽くしたと宣言できるのではと思えるほどです。